< 死の等価性 > 何十\年前だったか、後ろの方で初めてその話しを聞く機会がったときの印象は、・・・何やら自身の考えとか想念とかの展開に取り組んでいる姿勢が自然と滲み出ている、ということは感じ取られるというものだった、・・・なんとなくだが、ナルシストなのか、とも、・・・でも、それは自己に向かって集中する者によく見掛けられることなのだろう、と! しばらくして、雑誌か単行本だかに数人との対談がまとめて掲載されているものを書店で立ち読みしたように記憶している、・・・吉本隆明もその相手のひとりだった、・・・なにがしか期待して斜めに読んだが、吉本氏はほとんど何も語って居なかった印象で、ただ最後に「とても優秀な方だという印象を受けた」とのみ語って終りだったのではなかったか、と思う、・・すべて、昔のうろ覚えの話しだが、、しかし、そのような印象が離れることも変わることもなくずっと持続している! 思いも掛けない人達が、そんなに関係や関心があったのか、と思わせるような言葉を、西部さんの死に際して語っている、・・・それは、「影響を与える」という事のあり様が、直かに接しなくとも、畑違いであっても、「あり得る」だけでなく「実際にある」ということの表\われである、と同時に、「人」という者は、自身の考えを確かめるためには、結構\立場や傾向の違いを超えて、色々な思想や考えに「ぶつかって」は人知れず「格闘」しているものなんだ、ということを教えて呉れる、・・・結果、至り着く場を異にすることになっても、・・・それが、「思想」ということなのか、と!! なぜ、耄碌して自身が何かも分からなくなって、そして死んでいくことが、・・怖いのは致し方ないが、なぜいけないのだろう、はずかしいことなのだろうか、なぜ「いけない」というか「許せない」のだろう! 事故死は、その瞬間まで自意識があるはずだろうが、決して自身の意志からではない、・・・それも「自然死」のひとつだして、耄碌して分別がつかないままの死も「自然死」だというならば、どう違うのだろう! 自身の意志で統御できる事は、日常においては、むしろ少ないというべきだろう、・・「思い通り」などと云うことはほとんどないのではないか! 死ねば、人の手を借りてではあるが、「灰」となるだけである、・・・当方らの「庶民」は、ただそれだけである、・・・けれど、一握りの研鑽を積んでひとかどの者となった人達は、著作なり作品なり名声なりを残して、「死後も影響を与え続ける可能\性」という真の「栄誉」を自身で創り上げて来たのだ、・・その果てに、「仮に」耄碌した姿で「余生」を送ったとして、何が問題なのだろう! 「耄碌の病院死」も「事故死」も、「ただの庶民死」も、みな「等価」だと、当方には思える!!!・・・素人だからここで述べ立てるだけの用意がないが、刑法上の殺人罪のたぶん最も重い刑が死刑であるのは、この「死の等価」性を実現するための人類の知恵だと思えるほどだ!!! ・・・ただ、怖くて、どうやって自然死を迎えるか、という思いだけを抱いて生活するのが、自然な「あるがまま」の「普通」のように思える!