2018年11月14日水曜日

< 国と個人とを・・ >

< 国と個人とを・・ >
『・・・国家的道徳というものは、個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える事です。
 元来、国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、信義心はそんなにありゃしません。
詐欺\はやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。・・・』
(漱石「私の個人主義」)

大正三年というから1914年で、今から「僅か」100年ちょっと前である、・・・アジアの「南洋諸島」がなんと「ドイツ領」だった頃のことだ(・・してみれば、いま共産中国が周辺どころか太平洋を二分割して統治しようという「デタラメ」に、現ドイツがダンマリで親共産であることはけっして驚くことでもない、・・如何に「経済・軍事」が「世界」を「仕切る」かという観点からは!!)、・・・その当時の講演録だそうだが、漱石に「私の個人主義」という話し言葉の短話を見掛けて、その背景とかまではよく知らないままであってもざっと読んでみると、なんだか随分と「落ち着き」と同時にやはり「自身で考える」ということがとても大切なんだ、という「当たり前」に行き着くこととなった。
・・・一見なんということもない様な、当たり前の話しが述べられていたからである!
けれど同時に、その当たり前を持して生きていこうとするとけっして左程簡単でもないとも思わせられるからである!

「個人主義」(漱石の、である)というものは、
『・・・党派心がなくって、理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないということなのです。夫れだから、その裏面には、人に知られない淋しさも潜んでいるのです。・・・』

・・・「思想」というのでもない、「生活」上のまるで「心得」とでも云った方がよい、なによりも、これはまるで、「庶民」の「あるがまま」を写し取っているかのようだ! 

馬鹿な左翼の捏造の喧噪なんかはむろん論外だが、ただただ「願望」の卓上の吐露に過ぎない右翼保守の評論を百編見たり読んだりするよりも、一編の漱石を眺めた方がよほど裨益するところが多いと感じ取られる!!!

「それから」30年程のわずかの間に、長崎・広島までいき着き、その後は更に骨抜きになっていく、・・・その肝心の「理非」がまるで「死語」となっていくかのような過程を、いま、日本の「国」と「個人」の将来のために、もっとよくよく知りよくよく考えなければならない、と思い直される「契機」が含まれているように感じ取られる!!!