2017年1月9日月曜日

< 分断と亀裂 >

< 分断と亀裂 >
 朝鮮も共産中国もロシアも、同時には一人で背負える相手ではないのに、長年のたぶん小人数の気心の知れた者だけの間でのみ共有された想念に基づいて着手したその事と次第が多少とも明るみになってきた途端に、当初はただ単に“何となく”同類とみていた多くの保守や右翼の者達が、ある種の「いら立ち」を感じ取るようになってきているのだ。

 もともとが、「やり過ごす」などという手法は国際場裏では禁物であるのに、それは従来通り踏襲しながら、何か第三の道でもあるかのように思いなしているかのようだ。

 対外だけではない、内にあっては、本来「気概」をみせるべき存在が、たぶん欧州の大地主貴族の例に拠るのであろう、元来は“家”庭内の事を政治課題に仕立て、騒動の態である。

 いずれも、国政を担うことなどできない事を数年前に実証した“左”の者達の間では、左程の意見の違いなど見受けられない案件だ。

 ところがこれらの事案は、保守の者達の間では、相互にある種の懸隔があることに気付かされることになった。分断され亀裂が産みだされたのである。
近い将来、ますます超えられないほどに深く大きくなって行くに相違ない、その亀裂と分断に、保守・右翼は、その内部でそれぞれの陣営を相手に消耗戦を交えることになって行くだろう。

 赤絨緞が瑣事にかまける“大衆”(似非インテリ集団の産物のこと)の手で貶められるその結末が世の中に何を齎すか?