< “恒常”の時空 > “この世”の中に「貴種」など存在しない けれども、民衆が存立させているのである。 すべての者は、遡れば上るほどに俗にいう何処の馬の骨か分からぬもので、それでも一休ではないが自己認識する“糞袋“として何らの不都合など無く、これだけは例外なく、唯一と云ってよい万人に平等であるにも拘らず・・・。 なぜだろうか? 本当に問われているのは、その“当事者“のことではない。 民衆は、ときに一瞬にして無になることさえあるこの変動して止まない日常において、それらから遠く離れて振り返り顧みることのできる地歩が無くては、将来に向けて生きることができないのである。 ”揺らぎない心”が 内在する“恒常“という「理念」の共有が無くては連綿と生き続けることなどできはしない。 その存立はそのお蔭なのであり、またその限りにおいてのみである。 その“恒常“を、民衆が捨て去るようなことはしないからである。 その恒常の在り様が、国や民族の歴史の中で異なるだけのことである。 ・・・“恒常“という抽象の理念を“かたち“に表\わそうとすれば、その途端に、永遠の存在をおし戴く宗教か、もしくは、誰にとっても観ることも想い起すこともできない遠く霞んだ歴史の彼方から到来したものとするより外に方途が無い。・・・だからこそ、宗教「のようなもの」の装いを纏って現れるのである。 この“理念“を担いかつ承継される歴史であり得る“共有されるもの”の具象は、“復活した永遠者“や”還相する者“として一旦”あの世“に逝ったものを”この世”に甦らせたものであるか、若しくはあの世を通過させず”この世”に設えるためには“家”でしかなかったのである。 事象の根底に至りつく「抽象」をまったく欠いているがために、共有する理念と家と、元来そもそも孕んでいる矛盾が判らないのである。 いつか必ずと云ってよい、歴史の盛衰に晒されることになる、それは、誰にもどうしようもない自然だ。・・・、むしろ、そのとき、前時代へと退行する動向を危惧し、注視すべき時が到来するだろう。 いま、当事者だけでない、ほとんどすべての者が誤解している。誤解からは、どんなに事跡を遡っても事例を探し出しても答えなど出て来ることはない。それぞれが自身に都合のよい部分を拾い上げて反目し合うことになるだけである。