2017年1月8日日曜日

< 権威の二重構造 >

< 権威の二重構造 >
 本来は、皇室は歴史の産物であるから、「仮に」廃れていくことがあっても、それはむしろ「歴史」においては「自然」かもしれないという一面を誰にもどうしようもなく伴っている。
 しかし、現に一つの心的な“核”として日本国の民衆に受容れられている限り、存廃自体が議論される事態に晒すわけにはいかない。

 任意だろうが物理的強制だろうが法的強制だろうが、“退任”を認めれば、その先は必ず“権威の二重構\造”とでも呼ぶべき事態が絶対に発生する。・・・それは、延いては、皇室の存立自体を課題とする事態を必ず惹き起こすことになるだろう。
・・・それは、退任後に何らか殊更な言動をしなくとも、日常生活自体から発生する。・・・ごく他愛ない卑近なありきたりの場面を思い浮かべれば済む、どこかへお見舞いに出掛けたとする、どれほど、私的だと云い張ろうと、民衆は必ずそちらに顔を向け、心を寄せていく、・・いやそもそもが、何もしなくとも、必ず“比較”の対象とされていく。まだ生きているのだ、病床にでも就いていればともかく、比較しないわけがない、マスメディアが、シンパの右翼・保守の者達が。そしていずれ事あるごとに、ある種の勢力は存立自体を課題とすることだろう。
 些細な事を基因にして、綻んでいくのだ。

政治上の決定に関わらない事を良しとしているのであれば、存立すること自体に意義があることとなる。

皇統の子孫の継続を図ることとは別個のことだろう。


余所の国の事はしらない、が多くは自身が大地主で自前で財政が賄えるほどの環境にあって、自身の振る舞いを世俗権力に謀らなければ成り立たないということはない、のであろう。余所とは存立基盤が異なるのではないか。

いま、まるで事業会社の会長の任期のごとき扱いをする議論自体がなじまない話しだ。

ひとつの民衆を圧する政治的勢力でもない限り、触ってはいけない、皇室の“家事“に。・・・、死ぬまで家長は家長である、というだけの事としておくべきである。


皆さんは、どうお考えか?