2018年1月23日火曜日

< なぜ、成り立っているのか? >

日頃から「なぜ、いまなお専制国家が成り立っているのか?」という漠としているが、しかし決して消え去ることがない思いが付き纏う、・・・むかし、名前だけは知っていて、その何かの著作の序文をすこし覗いてみたときに、たしか「もっとも易しいのは“批判”することだ、もっとも困難なのは自身で思想を展開することである」という風の正確でないにしても文言だけが記憶に残っている、その哲学者ヘーゲルの歴史についての講義が残されているらしい
 それには、・・「誰かの手」でこんな要約がなされている・・(断り;自身では確かめていない、他人の要約を信用しているわけでない)・・
『・・・東洋の巨大帝国では、皇帝の専制支配のもとですべての人間が奴隷として服従しているので、そこには自由がないというのがヘーゲルの認識である。・・・
 中国文明では、儒教という優れた道徳思想が存在していたが、国家の法と個人の道徳とが分化せず共同体の原理が強く「個人」という主体的な存在が確立しなかった]。共同体から独立した市民が形成されていない東洋の世界では強固な官僚制が形成される一方、国家と人民の対立や社会と個人の間に葛藤が存在せず、社会矛盾を克服させようとする契機が乏しく、市民革命も近代化も不可能\であるとヘーゲルは考えた。自然現象を法則的に考察する姿勢がなく、学問が体系的に発達する機会が用意されていないと指摘、中国文明は科学の成立に適さないと見た。ヘーゲルは停滞的アジアという観念に強く固着していたため西洋との接触によってアジア諸国の歴史に変化が生じ、新たな時代の胎動が始まりつつあるという点が見落とされた・・』
・・・この「不明の書き手」の評価めいた部分は、当方には「どうでもよい」・・・

“自己意識の自己展開の過程としての歴史“の中で、なぜ、「国家の法と個人の道徳が分化しない」のか、なぜ「東洋の世界では強固な官僚制が形成される」のか、なぜ「社会矛盾を克服させようとする契機が乏し」いのか・・・等々、・・本当にヘーゲルがこの種の事を書き残しているかはいまここでは横に措いて、・・・いまも十\分に、アジアもしかするとロシアも含めて、その少なくとも政治上の実相の一つの側面を写し取っているかもしれないと思わせる、そういう切っ掛けとなる「疑問」を投げかける、「何か」を含んでいるように思われてくる!・・・徳川末期の書き物だそうだが!

「現実」は「抽象」を施さないと見えてこない、のかもしれない、・・・でも、同時に、その「抽象」のみからいきなり「裁断」されるとすると「庶民」まで切り刻んでしまう恐れもあるのだ
 それは庶民には大変な事実上困難な作業だ、・・・けれど、遠回りのようで、不可欠な、本来ならそれこそ「識者」が為すべき作業のはずだ!