2017年5月3日水曜日

< 民衆史を無視した大いなる誤解 >

いま「在る」のは、なぜなのか?

 二度も長男を大陸に出征させられて、その見送りにと出向いた祖父が憲兵に押し倒され、その見送る事さえ阻止されたことを、何度も繰り返し孫に向かって語った、・・・傍からみれば、卑近に過ぎて些細に思われるかもしれない民衆の「日常」の中で、その理不尽さの背後に何があるのか、何が本当なのかを知っていた。・・・そんな姿が全国至る所で“普通”だったのである。
これらは、敗戦前後の十\数年間の、“民衆”の「事実」である。

「仮にもし」、本当に権威と権力を成文通りにともに掌握していたとすれば、謂う所の“軍”の策謀・狡知・横暴\なんぞ抑え込むことができたのである。その場合は、実質は、あの者達の所為ではなくて、自身の所為なのだ。
「もし仮に」、権威だけであって権力を握っていなかったとすれば、自身の所為じゃなくあいつらの所為だったというのは本当かもしれない。しかし、この場合は、その実態が本来あるべき成文通りではなかったのである。
 
戦勝側が検事と裁判官を占めることを避けられない前提としている裁判が政治的な駆け引きの外の何物でもないことぐらい自明の事であっても、それでも裁判が抱えるたくさんの疑念や疑義や誤謬はあからさまにされなければならない事は云うまでもない。

しかしそうであっても、確かなのは、戦地でもない日常の生活の場で同朋自身の庶民が突然にただ命を奪われるに至らしめたことについてはほとんど顧慮の外にしたまま、その戦犯を代替物としてみなして済ますに値するものであったのかという一面と、それとは真逆に、そもそもが執るべき責任があったのかという捉え方さえあり得る一面との間に大きな隔たりがあったに相違ないことである。
・・・・庶民は「体感」上それをよく知っていた、だからこそ・・・敗けてから少なくとも十\年は、“その口調”を真似して笑い話しにすることがごく普通のことだったのである。しかも、その人達は、戦後教育とは無縁の、他でもない戦前の皇道教育で成人に達していた人達である。

どのような政治思想上の“傾向”や“偏向”ともまったく無縁の彼等が、本当に「よし」としてきたか、といえば、高等教育を受けた者の机上の“大衆”とは異なって、どのような教育を受けようとも、それにも拘らずに、一旦事実や実態を感じ取れば“庶民”はそれに基いて真っ当な判断と言動しかしないものだ。

民衆は或る時点で許したのである。

戦後まもない時代までの、主義にも翼にも無縁の民衆を忘れた議論をしてはけない!


騒ぎ立てれば立てる程に、ひとつの課題に追い込まれていくに違いない。・・・、「機能\」から迫れば、充足されない事態が必ず出来しその「責」を問われる、片や、「在る」ことに徹底すれば、その“由来“を明白にしなければならない、と。

「なぜ、いまが在り得ているのか」・・・いったい、何を誤解しているのだろうか!?
 “お迎えが来るまでその「存在」を全うする”という「気概」を示すことより外には現状を維持することはできない。
政治上の差配とは無縁でなければならず、表\立った言動は無用で却ってその存続を阻害することになったことによってこそ、むしろ「在る」ことができるものである。そっとしておくより外にはないものである、真に“守ろう”とするならば。
「そっとしておく」とはどういうことか。


・・・、だがもはや、「退く」ことを絶えず課題にせざるを得ない仕組みを造ったのである。
そうであるからには向後は、他でもない、むしろ、その当事者の内部においてこそ、しかも外部からは窺い知ることができない場で、「ところで、あなたはいつ退かれるお積りか?」と、絶えず問うことができる環境が出来することが可能\となった、・・・・かつ、そうなるだろう。50年単位で観れば、態々その種蒔きを行ったのである。その仕組みが、もしも誤解から生まれたのでなければ、意図して“制度としての政治“外の政治力の発揮に外ならないことになる。・・・本来は、その「家」のなかで片づけるべき事柄に過ぎない。・・・・・・やがてその内部で、争い事が絶えなくなることだろう。

誰にも平等で、どんな議論も無化して誰もが受容れざるを得ない「死」より外に方法などなく、誰も関与できない方途より外に採るべき道はないものを。


しかしどうあろうと、歴史のなかでの民度の高まりは、われわれ“庶民”にしてみれば、ときたまただ遠くから眺めるだけでよく、関与しない、としたものである。前時代へと退行しない限りは。