2018年6月7日木曜日

< なぜ、「ねじれ」たままか? >

 以前から何度か触れるのだが、知事選にせよ、地方議員選にせよ、自党の対抗者を応援して来た者をなぜ除名なりなんなりとしないで放置してきたのか?
 バカげた博打場法案には賛同の党議拘束をかけ、一方では肝心の反党勢力加担には「寛容」という名の「放置」をして、・・・「法案」に対する「一代議員」の意見表\明を尊重し、一方では所属政党の勢力の維持拡大に一致団結して努める、のが本来だろうに、・・・ところが、まったく逆の事をして!!!


『自民党の野田聖子総務相は12日、同党の衆院選公認候補を応援するため茨城県八千代町を訪れ、「(自民党は)他党の批判より、自分たちの反省からスタートしなければならない」と述べた。
 野田氏が距離を置いてきた安倍晋三首相(自民党総裁)や菅義偉官房長官らが、小池百合子東京都知事が代表\を務める希望の党を批判してきたことが念頭にあるとみられる。』(産経 10/12)

この新聞は、いまさらのチッポケだが「自分たちの反省からスタート」せよというある意味では「正論」を、「みられる」と憶測であることを断っているものの、わざとに深読みしてこじつけてみせている、・・・それは安倍応援団メディアとしての「印象操作」の一つだろう!

でも、ここでは、それよりも、・・・そもそもが、政治家としての存立基盤である政治理念、政策や目的やにおける単なる「ねじれ」に止まらない、その言動の「反党」性の放置をなぜ課題視しないのか?