2017年5月3日水曜日

< 事実の掲揚 >

「半島の半分」にすぎない「韓国」との間で、どんなに「最終的だ」と云って契約書にサインしたところで、半島が「半島の課題」として取り上げる限り「終わり」であるわけがない。半島全体が一つになればその時は無論のこと、それを待たずとも、必ずその「隣国」と組んで、新たな「始まり」がいつかは到来する。
彼らは、或る地方紙に短文を寄せている政治評論家のように儒教に囚われた迷妄云々などという類のウソ\交じりの蔑視をしてみせても、約束違反などといってみても、日本からの「評論」などに左右されることは絶対にない。
 その全土がその“像”に埋め尽くされ一層のこと醜くなるまでほかっておくより外に、他国の領土内のことだ、物理的に破壊してみせることができない限り、手立てなどなかろう。

 「本当に事実に反する」のであれば、「事実」を「国際場裏」の至る所であらゆる機会に指し示す活動を「延々かつ淡々」と継続して行うことに尽きる。半島の一国に限らない事案であれば尚更の事だ。

それをやってこなかった歴代の政権党の幹部、中央の役所の方が、国内としては問題であるはずだ。北や共産中国詣でして叩頭し歓待を受けてきた事跡だけは、左派の党の連中と共有してきたのだ。
メディアも評論家も学者も政治家も、これにはほとんどがダンマリである。

いまひとつ、云うなら、
蛇でも河童でも祀ってみせる「習慣」のあったこの日本では、もはや神道が何であるかなど何の関心もないところにまで達して、およそ神社・仏閣の参拝は、宗教的な意味合いよりも、もはや個人の「習俗上の振る舞い」に過ぎないところまで「民度」が高まっている。これほど「脱宗教の水準」が高い点で「誇らしい」高度な文化は他に例がないのではないか。実際、宗教に絡め取られた国や民族がどんなに悲惨で窮屈かは日々実証されているところだ。
 にも拘わらず、個人の「習俗上の振る舞い」に過ぎないものをとり上げるなんぞ馬鹿げたことだと一蹴することすらせずに、単なる牽制材料で取り上げているに過ぎない隣国達の戦術上の常套文句に、一々“興奮”して躍起になっている“政治”や“評論”なんぞ、真っ当な者はまったく望んでなどいない。
まして、百万人単位の英霊達の中には、政治利用される“特定の神社”に得て勝手に祀られてはかなわない方々もおられるのだ。なぜ、一宗教・宗派に縛り付けられねばならぬ。その方々の様々な「想念」を汚すものだ。このいまに至る歴史をただ淡々と規律を保ち堅実に積み上げてきた「民衆の英霊たち」に対してこそ敬意を払うべきに、それにつけて、却って貶めるものだ。

近隣国の低俗な政略上の言辞など、「一習俗を取上げた馬鹿げたざれごと」と一蹴し続ける以外に、まったく触れる要など微塵もなく無視し続けることが最良の方策である。個人の習俗上の都合で行きたい者が行くだけの事、・・・それをわざわざ近隣国と同レベルの言動を以って応じて、閣僚のうち誰は可、これは不可などと口約束してきたなどというのだろう(真偽はしらず)・・。裏で、個人的な誼で話を付けることを「政治」であるかのように思い違えて来た、むしろ、これまでの国内の政治家やそれに加担するメディアの方がよほど問題で、いまなお、そのような手法に頼り評価する一面から脱却していないではないか。


  実態はまったく名にそぐわない「共産」という宗教類似の軍事官僚制国家とその顔色伺い国家の低俗な政略的示威と干渉には、「国際場裏」で事実を示し続けること、その「事実の掲揚」以外になすべきこともなすことができる事もなく、「いま」はそのこれまでの「見過ごし、やり過ごし」の“怠り”の結果なのだ。

言葉の力も、物理的な力も、保有することが「抑止」だと根底から誤認しているのだ。・・・使わなければ「抑止」にはならないことに気付かないのだ。核も枯葉もその後の新兵器はかならず「アジア」(中東を含む)で「試用」かつ「使用」して、その「悲惨の実証」がなされているから「有効」なのだ。

示すべき時に、示すべき手段で、意思を表\明するためには、まずもって事実を愚直に高々と掲揚することが必須である。