< 「存在すること」それだけでよい > そもそもが、“公務”など必要がないのである 国民の太宗からは、“象徴“であることに異を唱える者を聞かない それは、軍事・外交含め国内統治の決定機関に関与しない、という意味合いでのその限りにおける“政治”に口出ししないという一種の合意を“良し”としているからに相違ない なぜだろうか? 政治に関与すれば、その途端に、その存廃自体を問わざるを得ないような事態・情勢・環境が出来する可能\性があるからである、・・・敗戦時のように 象徴であることは、その存在が問われることがないようにする唯一の在り方なのである だからこそ、これほどの“公人“であっても、公民権がないのである そうでなければ、想定上の“存続できない環境”、から“お護りする”ことができないのである その存在が永続すること、これが至上の意義なのである 民度の安定した維持のためにはこれしかないのである 何もしなくとも、齢を重ねて仮に何事もできかねる身体その他の状態になっても(これは誰にも必ず訪れる“自然“である)、仮のそうなっても、「存在すること」だけで、それだけで十\分なのである “その座にあること”が、そう云いたければ“公務”なのである 誰にも訪れる自然死以外には、その“座”から離すことはできない“存在”であること、これ以外に意義はないのである 諸々の所謂行事を、何もしない事を含めて、自身の発案によるものだけに限定すべきである それ以外にさせている仕組み自体が、その本来の意義からは、間違っているのである 仮に何もできなくなったら、何もしなくても一向に構\わないのである、そういう意義の存在なのである 何かをしてもらおう、まして何かをさせよう、などとは無縁の存在でなければならないのであって、そして何かをしよう、と思わなくともよい(それは“政治”以外ならば何をしてもよい、というのと同義なのだ)、それでよい存在なのである マスメディアを通してみる限り、すべての者が間違いに囚われている、と思われる 皆さんは、どうお考えか?