2016年11月10日木曜日

< 脱宗教から超宗教へ >

< 脱宗教から超宗教へ >
 熱狂はダメだ
 一宗教団体に過ぎない施設に、まるで国民の総意が込められているかのように、行かないと非国民であるとの意味合いの趣旨の“デタラメな大嘘”を、政治家がしかも政権党の政治家が唱えるのは、根底から間違っている
 追悼と敬意とは、特定の宗教を仮装した政治組織から解放されてこそ、その本来性と真の普遍性とが顕われ、広くしかも将来を担う子供たちに受け継がれていくものだ

 皇室が神道に則るのは、その伝統の“家事“だからである・・・それ以外のそれ以上の意義などなく、また家事に留めておかねばならないものだ

 信長が、坊主が宗教を装った政治及び利益集団に過ぎない(少なくともその一面が)限りにおいて、その宿坊を焼き払ってみせた歴史上の画期的政治経済的な過程のその折角の有意義な歴史的達成を無にしてはならない
 近代から現代の日本の発展の基礎だったのである・・・いまなお、共産主義含め宗教的熱狂国家の反人間的状況がそれを実証している

 まだ、幼いガキだった頃に、行幸の列車を畦道から見送った記憶がある
「通り過ぎるまで、顔を上げるな」との意味合いの指図があったかのような“覚え“である
これが、わずか5・60年ほどの“むかし“にすぎない事なのだ
・・・子供心に何とも言えない息苦しさであった・・・今思えば、象徴にたいする敬意とはまったく関わりのない事だ・・・時計を撒き戻してどうするのだ?

政治・経済に宗教や宗教の様なものその偏執の熱狂を持ち込んではならない

皆さんは、どうお考えか?