なぜ、「省みること」(reflection)が、「思考」とか「思想」において掛けがえのない欠くことのできない「契機」であるのか? ヘーゲルの核心部分であるようだが、ヘーゲルを批判しようが賛同しようが、いずれの勢力も、「反照」それ自体は問わないものようである! ・・・「絶対的精神」(「神」)が自身に立ち還る状態、それを「自由」だというのだが、当初は「対象」にへばりついた「自然」に過ぎない「自己意識」(魂)が「絶対」に至るまでの道程は、「反照」を繰り返す思惟の概念化の縦軸を伸張していく過程であって、それは一層の高みへと昇っていき絶対的精神(神)に至り着く過程で、そのとき「自由」が得られる、とでも云っている(かのよう)なのだ! それを時間軸上に歴史の過程として置き換えてみせれば、野蛮とも云ってよい野放図(アフリカ)から、「ただ一人だけが自由」でその他は「屈従」でしかない「東洋の専制」、そして専制者「一人」ではなく「人々が自由」である時代(これがゲルマンなのだそうだ)を経て、さらに、そこから失われた「神の国」(自由)へと至り着く過程となる、・・そして、それが「自由」の実現への道程である「歴史」なのだ、という風に設えられている(ようだ)、・・・ただ、ヘーゲルは一民族や一国家がその過程を順次に経ていくというのではない、「アフリカ」は迷妄のままに、「東洋」においてはその専制はずっとそのままで別段「進化」して次の段階へ進む、とは考えていたわけではないとのことだが!!! 一宗教の観念(あの世)を世界史(この世からあの世への道程)に仕立てただけだと云いたくなるのだが、・・・・!!! なぜ、このような事案を、と・・・迂遠だ、と思われるかもしれないが、いまなお、しかも今後の「課題」として観てとることができるからである!! いかにも「宗教」から脱してみせたかのような「装い」で、実質は同一の観念に他ならないのだが、・・・形を変えて、このような観念を、政治経済(この世)に持ち込み、人類の解放の歴史(この世におけるあの世の実現)などという誤った観念を妄想する者達が、いま巨大な「消費」を背景とした「経済」と「軍事」の力で以って、世界を併呑する(annex)意図をあからさまにする勢いであり、しかも、課題はこれに加担する勢力が絶えることがないことだ!!! ・・・・辞書によると、ちなみに、annex(併合する)という英語彙は、「盗む・着服」という意味でも使われるのだそうだ! reflectionを、このような観念の機制のロジックの中核に据えられ、その上、『なぜ、「反照」することが、思考や論理の展開の謂わば駆動力であるのか?』と問わないままであれば、・・・「この世からあの世に至る道」(宗教)であるか、又は「この世ながらにあの世に至る道」(政治経済の主義)であるか、そのいずれであろうとも、それらの「史観」に組み込まれた「発展」や「展開」の契機として認めて掛かるほかはないかのように受容れられることにならざるを得ないし、ヘーゲルなり宗教とそれに対する反宗教を装ってはいても自体が一宗派である共産主義を、それらを排し否定する思想の展開はとても難しいことに違いないのだ、と思てくる!!! どんな悲惨や屈従や策謀やらも・・・あらゆることが「一層の高みへの契機」としての「反照・反射」として飲み込まれて受容していかざるを得ないからである!!! ・・・「あの世」(神の世界)は神一つだけが自由である世界であり、「この世」(主義の政治経済)は専制者(組織)だけが一人自由である世界である観念に他ならない思想であって、・・・却って、そこには自由は存在し得ないのだ!!! 本当は、反射・反照という機制はどのようなもの・意義なのか?・・・それを、宗派や主義者たちからこちら側に取り戻す必要が有る筈だ、と思えてならない!!!