< “権利と義務” と “個人と共同体” >
「権利」とは何で、その根源は何か、なぜ「義務」が「負う」べきものとして現れるのか、はとても難しく俄かに応えられないのが通常だ(ろう、・・・各陣営の「論者」達には簡単かもしれない、「○×理論の教えるところによれば」という風に)、・・・ところが、本当に大切なのは、その底には、なぜこういう問いが不可避か、そもそもなぜ、こういう「概念」が存立し得るのか、という「問い」が湧き上がってくる途端に、自身が拠るべき立場がどんなものか、に気付かされることだ、・・・こムズカしくて議論などできない「庶民」にも“自然”に気付かされる“立場”だ! 「租税」もその上に成り立っている、・・・具体に本来なら税目がどうあるべきかも、自国通貨なら破綻なんてしないなどと嘯いては居られないことも、自然に浮かび上がって来る、・・・さもなければ、その概念が成り立つ“立場”自体が霧消し、租税の「意義」は喪失し、財政がどうのどころではない、定義次第でどうともなる「破綻」はせぬままに肝心の「住む世界」の方がが変質し、まったく別の「異様な世界」が現れることになる、・・・しかし、そんな「問い」に思い至ることもなかろう、経済を語るについては迂遠な事として考慮外で“よし”とする(かのような)“構え“で、各陣営の疑似論争というより抗争が展開されている、・・・まるで肝心の土俵のない、机を叩いて相手をひっくり返す紙相撲を観るかのようだ! 今年は何十人いや何百人か、昨年は、一昨年は・・一体この6・7年で何百人に上るのか、この10年では、・・・けっして、党派性に絡め取られた連中の云う温暖化の結果なんかじゃない、「災害」だと?!知ったかぶりのデタラメ言うな!! ・・・「政害」だよ!!! 「今日」の有り様は10年前の政害の結末かもしれない、・・・では「明日」のそれは?・・・それは「構想」などまったくなく、肝心の事は何もしない”者”を( その“者“が力こぶを入れた経済事案は、博打場の開設と、隣国共産党の号令一下ゼロにさえできる客をお目当てにする不確実性の塊のような観光事業でしかないのだ!)褒め称えてきたその“仲間達”の所業の結果ではないか! そういうなかでもなおも、それでもなおかつ、いずれの陣営も、お前等は知らないだろうがと、思い上がって無知な「大衆」(自分は含まれていないと思い間違って捉えている)のその「教化」でもしている心算なのか、・・・借りてきた外国産の倒錯理論の“喧伝”しか語れない、・・・!! 政府が長期に亘って為すべき「投資」(本来の「政策」と云うべき)の議論の必須性からは、かの「論」にせよかの論から「通俗」とか「御用」とか呼ばれている「理論」(ともに似非のインテリ大衆の持論のことだ)にせよ、それら共々の主張は「手段」「手法」ばなしばかり、・・・金融と財政のポリシーミックスとかなんとか、もう半世紀も前に当たり前に流布していた話しの枠を超えるものではないのに、まるで自分達のはそんなんじゃない創設の理論であるかのように思いたがっているのだが、改装開店を繰り返すパチンコ屋よろしく(足を踏み入れたことなく知らないが、いまこれも閉店して雨ざらしになっている光景が目に付く、・・・結構な事だ)、その焼き直しの目先の「景気」対策「手段」話しばかりだ!!! それらが、いまその実、何らの意義も「力」も持ち得ていない「現実」の厳然は、なぜか?何を意味するか?・・そんなことには思いもよらず、各陣営共々に、例外と複雑の多重骨折の消費税のただ一点(木)に狭窄して、個人と共同体の大局(森)を見失って、「手段」話しの陥穽に落ち、その本質が反社・反個人左傾集団との野合にひたすらの態である!! 抽象(理論的思惟)が足りない、その倒錯した現況から一体ぜんたい「何が起きるか」!!