『・・・「政府が財政破綻しないというのならば、政府が税金で財源を確保する必要はないというのか」と思われるかもしれない。実は、そのとおりなのである。
ほとんど理解されていないことであるが、租税とは、政府の財源確保の手段ではない。「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」が教えるように、租税とは、国民経済に影響を与え、物価水準、雇用水準、金利水準あるいは富の再分配を操作するためのマクロ経済政策の手段なのである。』 (部分;?財政赤字の拡大?は政府が今やるべきことか 日本の20年にも及ぶ長期停滞の真因 中野剛志 東洋経済20170328) いや、「租税」のその「富の再分配」その他の“側面”なり“機能”も、銀行の信用創造の簡単な仕組みなんかも、たしか大概の“ふつう“の者が子供の頃に「学校」で教わっている程度のものだが、・・・ボンヤリで居眠りしていた「庶民」にとっては、教えてもらえるのはアリガタイことだ、・・・それらの側面なり機能以外の件の事案のためであれば、「税金で財源確保する必要がない」のだ、と・・・別言すれば「徴税は不要」だ、と!! ・・・物価水準その他の操作のため、だとしても、その操作のための手段としての「財源」である「租税」が必要なのだろうから、ならば、・・・それぞれの「操作」に充てる「租税」は、どの時点でもよいから、おのおのどれほどの規模だったのか、・・・同時に、肝心の、その「租税で財源確保する必要がない」(徴税不要の)”永遠の借換え“対象は、何であってどれほどの規模か、示して見せたらよい!! 国債の多寡その他騒ぎ立てている事案のことなど、“他の事象と切放して”、問題にする者など居ない、・・その点は、いや役人・学者・評論家・政治家などインテリ風の「大衆」の間でさえもたぶんそうなのだろうが、・・・でも、そもそもが、立ち向かうべき「政策」の課題性をそんなところには据えていない、・・・「庶民」は!! ・・・・いくつかの考慮外となっている“他の事象”の欠落の一つとして即思いつくのは、はたしていったい、「徴税」がどのようになされ「得る」ものか、その背景の意思決定の在り様と、・・・その省察が欠けている、・・・法定通貨での納税(「徴税」と云っておこう此処では;「物納」があるらしいが換価性が前提のはずだ)という程の、眼に見えるものしか考えていないからだろう、・・・「抽象」が足りない、のだと感じ取られる!! In passing、・・・これは、どこかの共産党や労働党支配の国の喧伝のようなまるで馬鹿げた“地上の楽園”のようだ、・・もうあと一歩だ、実際、気付かない者達が居るようだ! ・・・この「論」に限らない、党派性を免れない「論」に基づくどんな「政策」も、地上の楽園として描かれるものだ、しかもそれらはチャンと整合性をもって描かれるものであることは、よく認識されているところだ!! 「自在性」を失うことがない一人びとりの「国民」が成り立ち得るのか、・・・「当たり前」の「課題」と「理路」の時空を基盤として生活している「庶民」は、とても“敏感”で、すぐ分別できる、インテリ風大衆とはまったく遠く異質だからだ!! 件の「理論」に与しない者達だからと云って、云うまでない、けっして増税賛成でもないし、財政均衡まして緊縮論者でもない、すくなくともそうとは限らない、・・・多分むしろほとんどの者は逆だ、税負担など軽い方がよい、“必要な”財政支出は必須だ、云々・・・しかしだからといって、政策論議の本義を踏みはずした、徴税の意義を抽象することができない者達を含めた連中の、その延長線に突き進むような愚なことはしない!!・・・立ち向かうべきところがまったく違うからだ!!! ・・・いま、「政策」と「論議」が「手段・手立て」を巡るものに成り下がり果てて、「通俗」の経済学とそれに寄り掛かった「既成」の陣営と、その通俗を撃つために別の「建て付け」の「論」を持ち出してその「既成」の機関や学者・評論家等に向けて“御用学者”云々と勝ち誇ってみせるかのような陣営と、そのように対立している構図に仕立てられた連中は、共々にそのそれぞれのテオリア(観想)のはてにそれぞれのイドラを担いで、その「逆立ち」した喧噪に気付かないのだ! 議論の対象や目的・目標が間違っている!「構想」を打ち出せ!その議論をせよ!・・・と、それら両陣営の「連中」とは無縁の、「庶民」は「当たり前」を持しているに過ぎない!! 財務省がどうの、と馬鹿げた・・・政治家の「非力」(構想力の欠如)に過ぎない、嗤うべき繰り言などどうでもよい、と!!