2017年5月3日水曜日

< 愚かしい前時代への回帰 >

 自称の保守やまして右翼と目される者達が得て勝ってに“自分たちと同じ考え”と思い入れているように見受けられるその“当事者”たちは、実際には彼らとはその思いが重なることは決して多くない、むしろ異なることさえあるに相違ない、と捉えるべきである。策動すればするほど、彼らの内部の亀裂が浮き彫りになり、その当事者との溝の“距離と深さ“も露わになってくる。・・・そこまでで留まれば、別段どうといって然したることはない。・・・課題はその先だ。

 政治外の当事者が政治を少しでも動かしたのだ、という“雰囲気“を「大衆」が感じ・嗅ぎ取るような状況になった途端に、”政治”はある種の「下位」に置かれることになるのは必定である。

このことの重大さに誰も思い至らぬ・・・いつか来た道。

馬鹿げた「前時代」の迷妄の権威と権力が支配することになるだろう、・・「意向と忖度」の「迷妄と横暴\」が徘徊し始めるのだ。・・・・「大衆」(政治家・学者・評論家・マスメディアの内なる)がそのお先棒を担ぎ提灯を掲げて闊歩するのだ。

見識がある者“かもしれない”と観られていた者達が、あるいは左の靡き、あるいは右に靡き、まして数十\万・数百万もっと数千万人に及ぶ独立自存の庶民をその人達とは無縁の国家間で取引材料にする一種の「倒錯者」達を「よし」とする至っては、・・・実は単なる他者より少し“教養“を積んだ「大衆」に過ぎないことがほころびて来た、このいまの情況は、そうした事態をも予\感させる動向である。

本当の保守は、まったく別のところに隠れている