2015年9月13日日曜日

私の仕事はハンドルネームの通り塾講師ですから、子ども達が学校で

私の仕事はハンドルネームの通り塾講師ですから、子ども達が学校でどのような授業を受けているのか、いつも何となくチェックすることが癖になっています。それで、報告を聞いていると、学校の社会科の先生が「安保法制に反対だ」と言っていたという発言が耳に入りました。それでこの際、みんなに聞いてみたら、これがまた、かなりの高確率で、同趣旨の発言をなさっている先生方がおられることがわかりました。具体的には、中学校は3校全て、高校は6校中5校という割合で、公立、私立合わせた数字です。

もちろん、先生方がどのような個人的見解をお持ちになるかはそれぞれの自由です。そして、同じ社会科を教える立場としては、とりわけ歴史や政治を語る時には、完全に個人的見解を排除することが困難であることもよくわかります。もっと言えば、生徒が個人的に「安保法制をどう思いますか?」と質問してきたならば、持論を語ってもよいとも思います。しかし、そうでもないのに、あるいはクラスが違っても同じ話を聞いているということは、これは「確信犯として、話そうと思って話している」と判断せざるを得ません。私の生徒が通う学校が、たまたまそういう学校ばかりだったのだと信じたいところですが、果たしてどうでしょうか。他の問題でも度々こういうことはありますから、暗然たる気分になります。

私としては、「事実に即した説明」を心がけることはもちろん、「個人的見解は極めて抑制的にすべき」だと思っていますし、賛否が分かれている問題について取り扱う場合には、「できうる限り両論併記」が教育の場の原則だと考えます。私塾の立場の私がここまで気をつけているのに、公教育の学校がこういう状況であるというのは、一体どういうことかと呆れてしまいます。

もちろん、法律で規制するような話ではありません。モラルというか、常識の問題だと思います。しかし、このようにして子ども達への「誤解の拡大再生産」が行われているのが実態で、やはり高校生ぐらいの年ごろまでは、何だかんだ言いながらも、学校の先生の影響力は絶大です。

と言い出すと、やはり選挙権の引き下げ問題が引っかかりますが、その議論を蒸し返しても仕方がないとするならば、学校教育をもう少しだけ公平中立にする方法はないものでしょうか。教科書をいくら改善しようが、最終的には人材の問題です。せめて自己の見解を抑制的に、「言いたいことを言うのが授業ではない」というくらいの共通認識は出来ないものかと思うのですが、西田先生は如何お考えでしょうか。

追伸:私の生まれ故郷は栃木県ですが、水害で祖父母の自宅が床下浸水となりました。今朝は早朝から出かけて片付けを手伝い、とんぼ返りして夜は仕事(授業)でした。うちは川から遠く床下で済みましたが、大変なところが数多くございます。速やかなる復旧のため、お力添えをいただけましたら幸いです。