質問ではなく意見です。 「N国党や松井市長の主張は犯罪を助長する可能性があるのでは?」週刊西田一問一答 http://www.nicovideo.jp/watch/sm35502848 「可能性」の誤用はやめてください。 チャンネル桜に何度もメールやコメントしたり出演している方々にも伝えているのですが 一向に改善される様子がありません。これが日本を大切に思う人の態度でしょうか。 皇族に対する不敬な呼び方やマスメディアの言葉遣いを指摘するくせに 自分たちがまさにそんな奴らに刷り込まれていることに気付かない。 悪い事態に可能性なんてあってたまるか!!!!!! ■『可能性』と『恐れ』はどう違うか? http://plaza.rakuten.co.jp/chenpitao/diary/201105220000 東電福島原発のニュースでは、例として 「メルトダウンの可能性がある」という表現が目立ちます。 私の言語認識では、この表現は「メルトダウンが起きてほしい」と同義です。 私が言うならば、「メルトダウンの恐れがある」です。 『可能性』の乱発には、なんとも違和感を覚えてしまいます。 この違和感を覚えるのは、幸いにして私だけではありません。 『Yahoo 知恵袋』では、利用者の疑問、質問に、別な複数の利用者が回答しています。 ■「可能性」と「おそれ」の使い分けについて。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q104795725 小学校の時のドリルの片隅の豆知識みたいなところに、 「可能性」は、よい方向へ向かうとき、「おそれ」は、悪い方向へ向かうときに使う。 とあったような気がして、いままでそう使い分けてきました。 しかし、最近TVのニュースなどを見ていると、「台風上陸の可能性」や「殺人事件の可能性」など、 どうみても事態が悪くなるときにも「可能性」を使っています。 「可能性」「おそれ」の意味、そのほか、適当な言葉があったら教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答 かのう‐せい 【可能性】 1 物事が実現できる見込み。「成功の―が高い」 2 事実がそうである見込み。「生存している―もある」 3 潜在的な発展性。「無限の―を秘める」 4 認識論で、ある命題が論理的に矛盾を含んでいないという側面を示す様態。 おそれ 【恐れ・畏れ・虞】 1 こわがる気持ち。恐怖。不安。「将来への漠たる―」 2 敬い、かしこまる気持ち。畏怖(いふ)・畏敬(いけい)の念。「神の偉大さに―をいだく」 3 よくないことが起こるかもしれないという心配。懸念。「自殺の―がある」 上記に書き示しているように、あなたの記憶が正しい。 最近のマスコミは、言葉を正しく使えていない。 一般人は、自分が使っていれば間違っていても正しいと言い張る。 そんな人には、辞書は要らんのだな? ■「可能性」と言う言葉の使い方がおかしい https://blog.goo.ne.jp/natukikousuke/e/581d460f458ff2caf6f273ddc1adc134 「可能性」とは「どの程度可能か」の意味で使われる。 程度の問題だから、例えば「成功する可能性は高い」と言うような使い方をするのだが、 おかしな事には「失敗する可能性が高い」と言うような使い方もされている。 何がおかしいかと言うと、どちらも程度の問題なのだが、 「可能」とは「出来る」であり、その「出来る」は「完成する」の意味もあるが「能力がある」の意味もある。 どちらも前向きとかプラスの意味である。 ある国語辞典は「可能性」の説明で、ただ一つの用例を「全員遭難の可能性が強い」として、 読者からおかしいのではないか、とクレームを付けられた。 それでもその辞書は、マイナスにも使うのだ、と強弁して、その用例を引っ込めなかった。 でもさすがにそれではまずいと思って、「審査に合格する可能性が強い」の用例を加えて、 それを最初に示すようにした。 私には言葉に対する感覚がお粗末だとしか思えないが、理屈をこねるとそうした結果になる。 本当は「全員生存の可能性が強い」の用例ただ一つだけで事足りるのである。 なぜ、今このような事を問題にしているかと言うと、全く同じケースが先日あったからである。 福島の原発事故で、原発の危険性をもっと十分に考えるべきだった、 との意見が多く出されている中で、原発を推進して来た専門家がこう言ったのである。 「可能性ばかりを言っていては何も出来ない」 物事はすべて小さな可能性を追究し、それを積み上げて完成する。 だから「可能性を考えて」物事は完成するのであって、上記の発言はまるで成り立たない。 しかし、この発言は新聞紙上では成り立ってしまっていた。 これは本当は「あれが危険だ、これが危険だ、などと危険性ばかりを言っていては何も出来ない」と言う意味なのである。 それを「危険性」とせずに「危険の可能性」としたために、 結論だけを言うと「可能性ばかり言っていては何も出来ない」と言うまるでおかしな表現になってしまったのである。 もちろん、新聞はそれに気が付かなかった。 「危険の可能性ばかりを言っていては」なら気が付かなくてもおかしいとは言えないが、 「可能性ばかりを言っていては」なのだから絶対に気が付くべきなのである。 多分、新聞も「恐れが強い」を「可能性が強い」と言う言い方を常にしていて 馴れっこになってしまっていたに違いない。 「可能性」の言い方は便利だ。 例えば「あの人が解雇される可能性は強い」の言い方を 「危険性」に言い替える事は無理だし、「恐れは強い」もしっくりとは来ない。 それで「可能性は強い」になる。これは最初の発想が悪いのである。 「解雇される可能性」などとするから駄目なのであって、 「可能性」を使わない表現を考えるべきなのである。 例えば「解雇される恐れは十分にある」とか「十分高い」にすれば済む。 「恐れ」と言いたくなければ、まるで違う表現にすれば良いのである。 例えば「解雇される予想は十分につく」とか「解雇される場合は十分ある」などと。 安易に「可能性」に頼ってしまうから、工夫をしない。 そこで「可能性」はマイナスの意味をも十分に持てると思われてしまう。 これは日本語を堕落させる要因の一つである。 言葉の持つ語感を大切にせず、矛盾する意味さえ持たせてしまう事が 日本語の発展になるはずが無い。 何でも一つの言い方で済ませてしまうのが結構はやっているらしいが、 それは5以上は「たくさん」で表して、 数詞としては1、2、3、4と「たくさん」だけしか無いと言う民族と似ている。 面倒は無いが、それでしあわせだと思えるだろうか。