2017年8月30日水曜日

< 事実の既成化の「力」 >

< 事実の既成化の「力」 >
立ち止まって、少し考えてみるとよい、・・・
「世界」は、日本その他の「我々」が「選ぶ」ことができない、その仕組みに関与することができない者達、・・・しかも、その者達は自己の利益の追求しか念頭にない者達である、・・・逆に云うならば、本来何らかの関与をする「権限」を「世界の人々」から与えられたことなどがない者達によって謂わば「いいように」されている、ともいえる・・・しかも、その者達とは実は、ある国の一介の不動産業者に過ぎなかったり、独裁国の一頭目に過ぎないのである!!
 
 ところで、・・・そのときどきの権力者から「いいように」された場合に「抵抗」すれば、たとえば場合によっては「反逆」とされることがあるが、それでもしかしその「国」の「内包」に限られるはずだ、
・・・では、その「外」から「いいように」された場合は、どのように扱うのか?

世界中で、少なくない人々が、本来「関与の関係」にないこの「外」からの「権力者」連中によって分断されたり、抑圧されたり、戦争に駆り出されたり、朝貢を促されたり、自らおべっか使いに訪問したり、・・・等々

「なぜ、だろうか?」

これに抗するに、「事実」を坦々と積み上げて「既成化」することによって、選ばれてもいない「権力者」達が「容認」するしかない道を進むより外にないと「覚悟」している「国家」が実際にあるのは、その素朴だが根底的な「問い」に対する応答ではないのか?

「外」は、「法の支配」ではなくて、「事実の既成化」しか「通用」しない世界だからではないのか?

 そう思い至ったとき、何をどうするかの「覚悟」以外に方途がないという事を、いまの世界中で起きている事象は、その意義の一端は、教えてくれている・・・そのように考えられる!


日本は、この認識が欠落しているがために、「事実の既成化」をしない、言い換えれば国際場裏でこの「なすべき時」に「なすべ」きことを「してこなかった」その「報い」をこれかも受けざるを得ない、そういう現状にあると認識すべきである